神道夢想流杖道の歴史
草創期
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神道夢想流は今から約四百年前、夢想権之助勝吉(むそうごんのすけかつよし)によって創始された。夢想権之助勝吉は常陸の国(茨城県)真壁家の臣桜井大隈守吉勝の門人で、飯篠山城守(長威斎)家直を流祖とする天真正伝香取神道流の奥義を究め、さらに鹿島神陰流(鹿島神流または直心影流ともいう)を学び、極意の「一の太刀」を授かったと伝えられる。
江戸に出た権之助は有名な剣客と数多く立ち合ったが一度も不覚をとったことがなく、天下無双の強さを誇った。慶長十年頃のあるとき宮本武蔵と立ち合い、十字留により押すことことも退くこともできず敗れてしまった。以来、権之助は武蔵の十字留打破に専心し、廻国修行を重ねた。
数年後、筑前(福岡県)の大宰府天満宮神域に連なる霊峰宝満山に至った。宝満宮竈門神社に祈願参籠すること三七日、満願の夜、夢の中に現れた童子より「丸木を以って水月を知れ」との御神託を授かった。権之助は、これをもとに剣によって得た真理を太刀より一尺長い丸木に応用、槍・薙刀・体術等の技も採りいれた杖術を編み出し、ついには武蔵の十字留を破ったと伝えられている。
その後、権之助は黒田藩(福岡県)に召し抱えられ、十数人の師範家を起し、盛大に指南せしめた。以来、この杖術は藩外不出の御留の武術として継承された。夢想権之助勝吉の没年は不詳である。
幕末から現代
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徳川末期、黒田藩の門流より平野次郎国臣(国学者であり歌人。『わが胸の 燃ゆる思いに比ぶれば 煙は薄し櫻島山』の作者)、平野三郎能得をはじめ、多くの志士を輩出した。
明治維新後、内田良五郎、竹内幸八の両師範により初めて東京に杖術が伝えられた。(杖道、剣道、居合道の範士となり昭和の剣聖と謳われた中山博道は、「内田良五郎師範より神道夢想流を学んだことにより剣道の裏が解り、杖の技が剣道に大いに役立った」と後に述懐している。)一方、福岡においては第二十四代師範白石範次郎重明が、高山喜六、清水隆次、乙藤市蔵外の門人を育成した。第二十五代師範となった清水隆次は、昭和の初めに上京、頭山満、末永節両翁の指導を仰ぎ、渋谷の頭山道場を中心に講道館、警察講習所、警視庁、海洋少年団他の全国組織から、旧満州国の協和会青少年部まで、振興に尽力した。昭和十五年(1940年)には「大日本杖道会」が創設、これを契機に杖術が杖道と称されるようになった。
戦後の昭和二十五年(1950年)、警視庁に警察予備隊(現在の機動隊)が発足、同三十一年には助教制度が設けられ、杖道も再び盛んになった。一方、昭和三十年(1955年)に全国の杖道愛好者により日本杖道連盟が結成され、振興のための活動が活発になった。
それらと平行して、昭和二十七年(1952年)の全日本剣道連盟創立時より参画していた杖道は、昭和三十一年に定款により正式に加入した。その後、清水隆次範士を委員長とする杖道研究会を設置、研究を重ね同四十二年二月、杖道制定形の草案を完成した。(これ以前の研究の成果は、専門誌「武道評論」昭和三十九年十二月号以降の連載で、構え方から、基本、十二本の形まで発表されている。形は神之田師範の打太刀、清水師範の仕杖による連続写真と詳細にわたる解説で、内容は現在の制定形とほぼ同じである。)草案は理事会および審議会での審議を経て、四十三年(1968年)三月二十九日の評議会において可決、待望されていた杖道形が制定された。この制定は、同年十二月の全日本剣道選手権大会で公開、翌四十四年五月の京都大会では、清水・乙藤両範士により披露され、近年の杖道のめざましい普及発展の礎となった。
前列左から1人目:清水隆次、3人目:白石範次郎、4人目:嘉納治五郎、6人目:刀匠の左慶一郎、後列4人目:高山喜六。(敬称省略)
神道夢想流杖道系譜
- 天真正伝香取神道流
- 【創始】飯篠山城守家直
- 松本備前守政信
- 松本右馬允幹康
- 小神野播磨守定勝
- 小倉上総介吉次
- 桜井大隈守吉勝
- 神道夢想流杖道
- 【流祖】夢想権之助勝吉
- 小首孫左衛門吉重
- 松崎金右衛門重勝
- 樋口半右衛門勝信
- 原田兵蔵信貞
- 原志右衛門氏貞
- 永富幸四郎久友
- 大野久作友時
- 小森清兵衛盈章
- 藤本平吉詮信
- 永富甚蔵友載
- 畑江久平則茂
- 小西文太友諒
- 渡辺辰助充豊
- 平野吉蔵能栄
- 吉川和多留利正
- 香下只七
- 濱地清市信敏
- 加納伊七信利
- 大隈新八信勝
- 西田武吉森茂
- 吉村半次郎重明
- 清水隆次克泰