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霞神道流発祥の地

「真壁」と夢想権之助

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霞神道流剣術顕彰記念(左)と真壁城跡にある鹿嶋神(右)

 真壁城で研鑚された武術の流名は、霞神道流と称し{武芸流派大辞典、日本剣客伝、並びに櫻井啓司氏(桜井大隈守の子孫)提供の資料参照}十七代城主真壁久幹が創始したもので、その系統は下記のとおりとなっている。

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 上記のうち桜井霞之助の兄である桜井大炊守実吉は、地元で人を殺害したため出奔して上方へ行き、戸田氏鉄(近江膳所城主、元和三年から摂津尼崎城主)に仕えている。桜井半兵衛は大炊守の孫で槍の名手といわれたが、「鍵屋ノ辻」で有名な伊賀越の敵討で荒木又右衛門に斬られた。

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真壁城址

 真壁町教育委員会の資料によると、真壁城跡は昭和九年十二月十八日に茨城県指定史跡となる。場所は茨城県真壁郡真壁町大字古城字本丸三七〇番地であり、真壁城は真壁六郎長幹により承安二年(1172年)築城されたと言われている。ちなみに長幹は常陸大掾(多気太郎直幹)家の出である。

 城郭の構成は大きく分けて本丸、二の丸、中城、陣屋とそれを取り巻く城とからなっている。かつての面積は約九万九千平方メートル(約十町歩)と広い。中でも本丸は平地より3、4メートル高所に配置され、また本丸の東部で地勢のやや低い所には二の丸が、さらにその上部に中城が配されるなど、丘陵を巧みに利用した広大な平山城であった。

 現在、この城跡のほとんどは田畑あるいは宅地と化し、その西端にバイパスが開通するなどして、城跡としての景観は乏しくなったが、航空写真におさめられた城跡をみると城郭の主要部分がはっきりしており、往時の広壮な佇まいをあらためて想起することができる。

 真壁城が築かれた承安二年(1172年)頃は平清盛の全盛時代で、また延暦寺等の宗門の力が強く、その争いがしばしば政治の表面に登場する時代である。真壁城は築城後、平氏と源氏の抗争時代からさらに鎌倉、室町、南北朝を経て、戦国時代の終わりを告げた関ヶ原合戦直後の慶長七年(1602年)に至るまでの約400年有年に亘る動乱時代を真壁氏の居城として存続してきたわけであり、当然その間多くの戦乱に巻き込まれている。

 なかでも初代の長幹が文治五年(1189年)、奥州藤原泰衛征討に加わったのをはじめ、六代幹重は南北朝の戦いに北畠親房を助け北朝方に攻められて落城、七代高幹は再興したが十二代慶幹は足利持氏との戦いに破れ、十三代朝幹は上杉禅秀での乱の平定に力をつくし、特に十七代久幹は勇武絶倫で世に鬼道無と言われて城麓にその威名をとどろかせ、十八代氏幹は小田氏治、北条氏直との戦いに臨むなど、その歴史は波乱をきわめている。

 関ヶ原合戦後、十九代房幹は主従関係のあった佐竹氏に従って秋田角館に移封されたが、実に400年余の長年月、世に言う乱世の時代、同一代によって一つの城の命脈が保たれたことになり歴史的にみても特筆に値するものである。

 その後、真壁には浅野長政が新封五万石で入っており、墓所を本城東方、天目山山麓の伝正寺としたため真壁と浅野家、赤穂浪士との関係も生まれている。

 星霜移り、往時の姿を忍ぶものは本丸跡、及び内、外堀の一部となったが、隣接大和村の雨引山楽法寺(雨引観音)には当時の城門が「黒門」として残されている。これは真壁氏最後の城主となった十九代房幹が寄進したものであると言う。城門の一部は修理されているがほぼ当時の面影を伝えており、貴重な真壁城の遺構である。尚、雨引山は真壁郡本木(もとき)にあり、真壁町の北6キロ、岩瀬駅から南に4キロ、標高400米、山腹に観音があり、坂東巡礼の二十四番の札所である。

 第十七代真壁城主真壁安芸守久幹(霞神道流真壁道無)に家臣としてつかえた桜井大隈守は、夢想権之助に武術を伝技した。又、天正十五年(1587年)に天道流齋藤伝鬼房(当時三十八歳)は真壁の一党により殺害されたが、真壁久幹とともに桜井大隈守もその一党に名を連ねている。

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黒門(左)と齋藤伝鬼房の墓廟(右)

 時は移りその後、夢想権之助は修験場として名高い筑紫(福岡県太宰府)宝満山に参籠祈願し、霊夢により神道夢想流を創始するに至ったことが考証されている。